2019年01月

2019年01月19日

帰国直前にラーマンさんから入電



ダッカを離れる1月4日。ホテルで朝食を終えたところにカシナプールのラーマンさんからファイスブックのメッセンジャーで電話が入りました。

ラーマンさん側の電波状態が悪く、会話が途切れて、互いに何度も掛けなおしました。

家の中(ジャパン・フレンドシップ・アカデミーの校舎と自宅が同じ建物)は電波の受信状態が悪いというので、建物の外に出て通話をしても改善しませんでした。

ラーマンさんは、私たちがバングラに来たのにカシナプールに立ち寄らなかったことを残念がっていました。

今回は、総選挙と重なったため、私たち外国人は警察と軍隊のシークレットサービスの監視を受けて、ラッシャヒに滞在することになりました。監視と言っても、モンジュールさんに警察や軍が安否を確認するだけのことでした。

ダッカからの移動は列車やバスを使わずに飛行機を使ったことで、安心で快適な旅をすることができました。

このことは、ラーマンさんもよく理解してくれました。

以前から、ジャパン・フレンドシップ・アカデミーで日本語教育ができないか、日本からネットで遠隔授業ができないかと模索していましたが、入管法が改正することになり、日本側の下地ができたと思った矢先、法改正の中身は低賃金の外国人労働者を受け入れるということになり、ジャパン・フレンドシップ・アカデミーでの日本語教育の意義とはかけ離れたものになってしまいました。

しかし、日本で学んだことがバングラデシュで役に立つのなら、日本への留学や技術研修という選択肢は残っています。

そういう意味でも、日本語教育の需要があればジャパン・フレンドシップ・アカデミーでの日本語教育は進めていった方が良いと思っています。

ラーマンさんの話では、自宅の3階にWifiのルーターを付けたと言っていますが、それが全く役に立っていないのか、それともWifiのルーターではないのか、現地に行ってみないと、話だけでは状況がわかりません。

以前から、悪友とジャパン・フレンドシップ・アカデミーに行って状況確認と場合によっては、ネット環境の改善をしたいと思っていました。

ラッシャヒはアロアシャ学園もモンジュールさんの家もWifi環境が整って、停電さえなければ、大体は使える状況になりました。

カシナプールはどうなのか。もう少し、調べてみる必要があります。

 

 

 

 

2019年01月06日

無事に帰国しましたが...

1月5日午前6時10分ごろ 愛知県沖上空

ダッカを4日の14時30分発のタイ便で出発し、バンコク経由で、昨日の朝、無事に羽田空港に到着しました。

ところが、いつまでたってもターンテーブルからスーツケースが出てきません。結局、私のスーツケースは出てきませんでした。



仕方なく、クレーム処理をお願いしました。別送の税関申告をして、タイ航空へ調査してもらうことにしました。

帰宅して、一風呂浴び、ビールを飲んでゆっくりしていたところに、羽田空港から連絡が入りました。私のスーツケースがタイ空港に残っていたので次の夜行便で羽田空港に着くということでした。月曜日には自宅に届けてくれるそうです。

バンコク空港は真夜中の時間帯でも10分間に4本ぐらいの離発着があり、超過密ダイヤの空港です。24時間営業でハブ空港としての機能を十分果たしています。

こういう状態では、別の便に乗って行っても不思議ではありません。同じ航空会社で乗り継ぎしたことが幸いでした。

バンコクで違う便に乗ってしまったのかと思っていましたが、バンコクに残っていたので安心しました。

それにしても羽田空港の手荷物取り扱い業者の対応の早さには驚きです。

渡航中の出来事は、これから少しずつアップしていきます。

himajintaro at 10:55|PermalinkComments(0)交通 

2019年01月02日

アロアシャ学園の始業式

1月1日はバングラデシュでは新しい年度が始まります。

アロアシャ学園では新年度380人の子供たちが学ぶことになります。

始業式として生徒全員に新しい教科書の配布が行われました。





















学園の理事から次々と新しい教科書が手渡されました。

教科書配布後、理事たちから激励のメッセージがあり、生徒たちは勉強を頑張るという約束を誓いました。

始業式終了後、学園理事と教師が職員室に集まり会議を行いました。



学園スタッフは事務長を入れて14人です。今年、3人の先生が採用されました。

会議の中では生徒の保護者の教育に対する理解の不足が話題になりました。

生徒が自宅に帰っても勉強をしない。保護者もさせない。

経済的理由でアロアシャ学園に入っていますが、労働者としての子供であることが実態なので、仕方がないと言えばそれまでです。

バングラで有名なNGOブラックが貧しい子供たちを対象に1年生から4年生を1つの教室で一人の先生が教えています。この学校に保護者が金を出してブラックの学校に行っているということ聞きました。

これに対して、アロアシャ学園は一切お金を出さずに入れる学校です。先生は学科毎に教える方式を取っています。

保護者の意識を変えてもらいたいという先生たちの意見で、保護者を学園に呼んで説明会を開催することになりました。

それから、学園の運営について理事側から説明がありました。

今まで、学園運営費の柱となっていた種ジャガイモの販売価格が低迷し、利益が生み出せないため、イチゴ苗の生産拡大や乾燥マンゴーの加工にシフトしていくと説明しました。

また、万が一、運営費が賄えなった場合、他のNGOに引き取ってもらうか、政府管掌の小中学校にしてもらうことになります。

政府管掌になると、貧しい子供たちだけの学校ではいられなくなり、先生も解任されます。現在の先生が留任を望むなら、一人当たり100万タカのお金を政府に払わなければならないという、日本ではとても考えられないシステムになっています。

運営費については、事業規模の拡大により捻出していくことで先生たちに理解してもらい、先生たちからは引き続き、アロアシャ学園の建学の精神のもとに生徒の教育に臨んでもらうことにしました。

会議終了後、蔵王キリスト教会からの寄付金6万円(43,200タカ)を理事長のアノア先生に手渡しました。

himajintaro at 10:29|PermalinkComments(0)アロアシャ学園 

2019年01月01日

大晦日恒例焼鳥パーティ

30日の総選挙も無事に終わり、大晦日は恒例の焼鳥パーティが行われました。






20年近く前に、モンジュールさんのリクエストで日本酒と焼鳥のタレと竹串を持っていたことがきっかけで、年末年始の渡航では必ず焼鳥パーティを行ってきました。

最初の頃は、日本の焼鳥を知っている人がいないので、市場で絞めた鶏の肉を骨からそぎ取り、竹串に刺せる位の大きさに切り、玉ねぎは1/4に切って、ネギマにしました。

だんだん、仕込みの作業は私から離れていき、今では、指示をしなくとも串に刺させる状態までになつて出てくるようになりました。

串も持ち込んだサイズの物がラッシャヒで普通に買えるようになりました。どうも、私がラッシャヒで始めた焼鳥が食文化として定着し始めているようです。








焼鳥の前にタンドリーチキン風の骨付き焼鳥を焼いていました。




レンガを立てて、串が上がる幅にして竹炭を入れて焼いています。




焼鳥のタレは、エバラの大きいボトルを持って行ったこともありますが、最近は小さなタイプの物を持ち込んでます。








上の写真の一番右側のミロンはアロアシャ学園の卒業生です。彼は自動車解体の研修生として日本に行ってことがあります。日本で焼鳥を食べたことがあるか尋ねましたが、宗教上の理由から食べたことがないと言っていました。
お祈りをしていない(ハラルでないもの)肉は食べない規律を守ったようです。ただ、牛肉を一切れ食べたと言っていました
彼はアロアシャ学園の食品加工工場の責任者として活躍しています。













焼鳥パーティにはアロアシャ学園関係者やモンジュールさんの娘ポロマ(上の写真左)の友達も招待されていました。








アロアシャ学園の前校長アリさん(モンジュールさんの甥)が息子のピアムと一緒に来ていました。
彼は、校長の職に満足せずジャガイモ栽培で独立したものの、素人農業はすぐに限界がきて、現在は建設会社を興し、従業員25人、日雇い労務者100人を抱える最高責任者として頑張っているようです。

娘のプリマはラッシャヒ大学で英語を専攻する学生だと言っていました。プリマもピアムも小さかった思い出しかありません。時がたつのは早いものです。それだけ、自分も年を重ねているのです。




もう一人、異色の人物が招かれていました。上の写真右の彼。彼は陸軍のセキュリティサービスの責任者です。

元々、モンジュールさんと知り合いだったのですが、今回、総選挙が行われたため、職務の外国人警護と私たちの警護が重なってしまいました。

モンジュールさんは以前からチッタゴン丘陵に住んでいる少数民族のイチゴ栽培指導をバングラ陸軍から依頼されていました。少数民族とのトラブルを武力による解決ではなく農業での生活支援を考えたようです。




現地時間、午後9時(日本時間1日午前0時)にカウントダウンが行われ、日本の年明けを参加者みんなで祝いました。
30日に総選挙があり、実質的な厳戒令が敷かれたことの影響のためか、街の中は静かな新年を迎えました。